昭和46年 (月日不明)
                          中村良一


 乱菊物語と言うのがありますね。六代目菊五郎と言う、あの名優が居りましたが。名優の若い日のお芝居なんです。皆さんもご承知でしょうけれど、女中のお徳と言うのが、もう献身的に尽くします。そして、それこそ、涙ぐましい、当時の菊之介に尽くして、そして自分は、はかなくも目の病気で亡くなって行くという筋の物語です。それから、菊之介は、父親に認められて、六代目に襲名するという。主人を、まぁいうならば、成功に導いた。けれども、家内は、その下積みで犠牲になって、いわば、縁の下の力持ちで、一生を終ったというのが筋なんですけれども。普通の、わたしは、この信心のない人達の生き方の中には、それがまず、ほとんどであるとこう思いますね。それを、如何にもやはり、真、真心で尽くしますから、美談と言うように申しますけれども。それでは、余りもの事だから、折角、その人の事に真が、真心が、いや、命までもかけて、尽くすと言うのですから、それが、報いられなければですね。一つ、信心のある者とない者の違いは、そこらへんだと思うです。ほんなら、金光様のご信心なら、ご信心を頂いて、真一心を貫いて、どんな縁の下の力持ちであろうが、どんなに、犠牲になると言うてもです。それが、真、為されている限り、それは、犠牲にした者よりも,犠牲にさせられた者、犠牲になった者、縁の下の力持ちをした者ほど、力を受けておる。犠牲になった者ほど、徳を受けておると言うのが、信心だとこう思うです。ですから、信心しておっても、それが、現れてこないなら、まだ、可笑しいのである。
今も、佐田さん、そのために、わざわざお礼に参拝したというておられますけれど。昨日は、久留米で、当時は、大変食の事情の難しい中で、食料品とか、野菜なんかをなさって、そして、弟さんを医大に出され、そして、立派な一人前のお医者になされ、そして、今度は、まぁいうなら、留学まで、三年間ですか、させられて、立派に帰って見えられた。本当にまぁいうならば、もう弟のために、自分、または自分一家は犠牲になって、自分は一切学校に行かずに、一生懸命働いて、弟を学校にだして、弟を立派にしたとこう言うのである。しかも、今日また、見えられて、どうでも一つ開業したいと、という話を聞かれると、もう、一家中の人達が、佐田さんを中心にしてです、どうでんこうでん、いっちょ、私どんも、あんたが、そげんする時には、一肌脱げるように、おかげ頂いとかにゃならんと言うて、まぁそういうふうに話が出来れると言うことが有難いと言うて、昨日、お礼に出て見えられた。そげんいうなら、お前がこっだけには、犠牲になっておれんぞと言うておられない訳ですよ。その辺のところがです、私は信心だと思いますね。いわゆる、弟さんは、立派なお医者さんになって見えたけれど、それ以上のものを、佐田さんは、お繰り合わせ頂いておられるです。これは、佐田さんの、信心を頂かれてから、この方の場合なんかは、例えば、日田にお出でられた時でも、そうでしたよね。まるきり、佐田の方を犠牲にして、お店をやめて、家内の家の店が潰れるか潰れないかという瀬戸際に行ってから、色々、苦心されたんですからね。そして、ほんなら、なるほど、店は立派になったけれども。ほんなら、その店を、妹達夫婦に譲り渡して見えた時には、いや、その弟達よりも、譲られた者より、譲って帰ってくる者の方が、おかげ受けとったということなんですね。私はね、もう絶対、信心は、それでなからにゃいかんて。そういうことをね、ほんなら、これは私の、過去の信心を言うても良いです。様々な事もございましたけれども。その事のおかげで、私は、力を受けて。その事のおかげで、私は、より幸せになってきた。そこに一つ、信心と信心でない。それは例えばね、世の中には、随分ある事です。いわゆるその、乱菊物語じゃないですけれども、そういう例はあります。本当に、あの人達のものだった一生を、ほんとうに、自分の身を粉にして、誰々のために尽くされた。そして、まぁいうなら、淋しく亡くなられたといった様な例は沢山あります。けども、これが、信心のない人達の姿なんです。だから、信心させて頂くという事は、いや、むしろその、犠牲になる事も、また縁の下の力持ちになる事もです、それが真でなされるです、真心でなされるです。そこに、いわば、あちらも、もちろん立つでしょうけれども、こちらは、なお立つといった様なおかげが伴うておらなければいけん。そういう、おかげの頂けれるのが、金光様のご信心である。親のある子と、ない子ほどの違いというのは、そういうとこにも、はっきり表れてくると思うですね。